
すでに日本に帰ってきてしまいましたが笑、引き続きスペイン修行シリーズです。
この写真を撮った頃の週は主にこのメンバーで練習してました。
メキシコ人、スペイン人、ベルギー人、アルゼンチン人、そして日本人の私。
国際色豊か過ぎです。
去年来たときも言われていたことですが、maxiにはことある毎に「DAI、 Intensity!」と言われます。
これは単に「そんなに優しく打たず、もっと強く打て!」というニュアンスもありますし、「プレー全体で醸し出す雰囲気をintensityにしなさい」というのも込められているようで、 これと似たような意味で「DAI、お前はコーチなのか選手なのかどっちだ?もし選手ならそのプレーではダメだ」とも言われました。
指導者としてプレーしてきた時間が、選手としてプレーしていた時間をだいぶ追い越してしまったので、「相手に合わせる」「受け身」「ちょうど良く加減する」といったプレーが無意識に染み付いていました。
というより正確には、スペインに来たことでこういったことに気づいたのですが。
「選手」としてボールを打つことと、「指導者」としてボールを打つことは、ボールに込める意図がかなり違います。
身近な例で言うと、野球の「ピッチャー」が投げるボールと、「バッティングピッチャー」が投げるボールは明らかに意図が違います。
ピッチャーは打者を「抑えるため」に投げます。
ですがバッティングピッチャーは、「打者を気持ち良くさせるため」に投げます。
これは良い悪いの問題ではなく、それぞれに求められるピッチングが違うということです。
この写真を撮った頃の週は主にこのメンバーで練習してました。
メキシコ人、スペイン人、ベルギー人、アルゼンチン人、そして日本人の私。
国際色豊か過ぎです。
去年来たときも言われていたことですが、maxiにはことある毎に「DAI、 Intensity!」と言われます。
これは単に「そんなに優しく打たず、もっと強く打て!」というニュアンスもありますし、「プレー全体で醸し出す雰囲気をintensityにしなさい」というのも込められているようで、 これと似たような意味で「DAI、お前はコーチなのか選手なのかどっちだ?もし選手ならそのプレーではダメだ」とも言われました。
指導者としてプレーしてきた時間が、選手としてプレーしていた時間をだいぶ追い越してしまったので、「相手に合わせる」「受け身」「ちょうど良く加減する」といったプレーが無意識に染み付いていました。
というより正確には、スペインに来たことでこういったことに気づいたのですが。
「選手」としてボールを打つことと、「指導者」としてボールを打つことは、ボールに込める意図がかなり違います。
身近な例で言うと、野球の「ピッチャー」が投げるボールと、「バッティングピッチャー」が投げるボールは明らかに意図が違います。
ピッチャーは打者を「抑えるため」に投げます。
ですがバッティングピッチャーは、「打者を気持ち良くさせるため」に投げます。
これは良い悪いの問題ではなく、それぞれに求められるピッチングが違うということです。
相手バッターにポンポン打たれてしまうピッチャー、自チームのバッターが調子を落としてしまうほど素晴らしいピッチングをするバッティングピッチャー、どちらもその立場で求められるものと違うピッチングですよね。
ケースバイケースですが、パデル(やテニス)の指導者に求められるのは、多くの場合選手(や生徒)が「ノッてくる」よう打つことです。
パデル選手に求められるのは、相手が「諦める」ようボールを打つことです。
これは真逆に近い技術で、技術的にもそんな簡単ではないのはもちろん、それよりも「気持ちの持ち様」が全く違うので、個人的にはこの気持ちの部分のほうが難しい。
テニスの世界で言うところの「殺し屋」の部分です。
テニスのチャンピオンの多くがこういった精神的要素が強くなるうえで欠かせない、と語っていますが、これはパデルでも同様だと思います。
マザー・テレサの再来と言われるほど本来優しい私には特に難しい 笑
ケースバイケースですが、パデル(やテニス)の指導者に求められるのは、多くの場合選手(や生徒)が「ノッてくる」よう打つことです。
パデル選手に求められるのは、相手が「諦める」ようボールを打つことです。
これは真逆に近い技術で、技術的にもそんな簡単ではないのはもちろん、それよりも「気持ちの持ち様」が全く違うので、個人的にはこの気持ちの部分のほうが難しい。
テニスの世界で言うところの「殺し屋」の部分です。
テニスのチャンピオンの多くがこういった精神的要素が強くなるうえで欠かせない、と語っていますが、これはパデルでも同様だと思います。
マザー・テレサの再来と言われるほど本来優しい私には特に難しい 笑
かなり昔、「選手とコーチの二足の草鞋を履くのは大変だよ」と恩師に言われたことがあるのですが、その大変さのもう一つの意味が約20年振りに、しかもパデルを通して気づけ、改めてどちらにも感謝です。
もうしばらくはまた二足の草鞋を履きたいと思っているので、自分の中の殺し屋とマザー・テレサのスイッチを上手に切り替えていきたいと思います。