日本パデルアカデミー

テニスとスカッシュのハイブリットスポーツ、パデル。 パデルは40年ほど前にスペインで生まれたスポーツで、欧州や南米を中心に親しまれており、本場スペインではテニス人口を上回る競技人口をもつ人気スポーツとなっています。 「パデルが上手になりたい」という方のお役に立てれば幸いです。

カテゴリ: 練習

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長年生きていると、どんな人にも「未だに心に残る言葉」というのがいくつかあると思う。

そこまで大げさなものではなくても、何かのきっかけで思い出す言葉というのはいくつもあると思う。

パデルに関して言うと、私はふとしたときにMaxi(スペインでパデルを教わったコーチ)の言葉が頭の中を過る。

そのときはいまいちピンときていなかったことが、時間差で理解出来たり上手に出来るようになることがある。

あるいは、その当時も出来ていた、理解はしていたが、そのときのあの言葉にはさらに「奥」があることに気づいたりということが何回もある。

例えばバンデッハ。

「なぜパデルにおいてバンデッハが必要なのか」

これがしっかり腑に落ちている人がどれくらいいるだろうか。

スマッシュより攻撃性が落ちるうえに、打ちづらい。

頭の中のどこかに「ほんとにバンデッハって打ったほうがいいのかなー」、もしくは「打ち方これで合ってるのかなー」といった疑問がある人も少なくないかと思う。

まだ日本に入ってきて数年とはいえ、もはやパデルに関する情報はいやというほど溢れている。

実際のレッスンを受けずとも、バンデッハの打ち方はネットのあちこちに落ちている。

動画のお手本を真似して、そっくりに打てるよう練習していけばいつしかバンデッハが打てる日は来る。

だが、「バンデッハを(上手に)打つ」ということ自体は目標ではない。

パデルの「ゲームで相手を負かす」という目標のためにバンデッハを(良いフォームで)打つのだ。

と考えると自然と湧き出てくる疑問がある。

「なぜ(スマッシュやビボラではなく)バンデッハを打ったほうがいいのか」
「なぜバンデッハはあのフォームで打ったほうがいいのか」

これが分かって初めて、目的と手段が合致したと言える。

それが分からずバンデッハを上手に打てたとしても、それは「お箸とシチュー」「フォークと味噌汁」のような関係になってしまう。

いくらでもスマッシュでコート外に出せるプロの選手が、なぜあれだけバンデッハを多用するのか。

あれだけ反応も良く、ボレーも上手いプロの選手が、壁を利用して相手のバンデッハを返すのはなぜなのか。


こんなことを考えながらパデルを観たり練習したりしていたら、一休さんやあばれはっちゃくばりにふと閃いた。

と同時に、Maxiはこれが言いたかったのかととても合点がいった。

Maxiが言っていた、「ロブが上がってきたときのファーストチョイスはいつもバンデッハ」という言葉の意味がやっと分かった。

Gracias,Maxi.

パデル テニス スカッシュ スポル 一万時間の法則
久しぶりに感銘を受ける本に出会いました。

スポーツに限らずどの分野でもこの「才能vs努力」論争というのは尽きません。

「一万時間の法則」を読んでは努力に傾き、「スポーツ遺伝子は勝者を決めるか」を読んでは努力だけではさすがに抗えない部分もあるのかと少々落ち込みもしました。

ですがこの本でかなりすっきりしました。

結論から言うと「努力がすべて」ということでした。



生まれつきの才能で超一流になった人などおらず、またトッププレーヤーに共通の遺伝的特徴なども存在しない

長期間に渡る厳しい練習をせずに並外れた能力を獲得したと断言出来るケースには一度もお目にかかったことがないと断言できる

これまで生まれてきたいわゆる「天才」たちに対して、生まれつき才能があったと結論付けるしかない、という証拠は一つもない

自ら選んだ分野で十分な練習を積み、一定の能力レベルに達した人の間では、誰がトップとなるかを決定するうえでなんらかの遺伝的能力が影響することを示すエビデンスはない

「生まれつき才能がある人」を特定する方法は、いまだ誰一人見つけていない



もちろん「ただ努力する」だけではダメで、しかし限界的練習を継続すれば「誰でも」エキスパートになれるという内容でした。

限界的練習とは簡単に言うと、「自分のコンフォートゾーンの少し外側で練習すること」で、練習時常に脳と身体に負荷をかける練習法。

映画のトップガンのように自らを半強制的に「デンジャーゾーン」に身を置くということ。(実際も映画の内容に近いトレーニング内容だったそうです)

これをし続ければ誰でも自分の分野でエキスパートになれると説いている。

その分かりやすい例として、腕立て伏せの世界記録10507回連続という数字を挙げていた。

その限界的練習のやり方や根拠が載っていて、しかもそれは特別なものではないのが素晴らしい。

誰でも出来る。

ただ一般的に人は「快」を求めて日々行動するので、自ら「不快」と感じるゾーンに自分を持っていくという部分が難しい。

リフレッシュのためにパデルしに来たのに、脳にストレスがたまる
気持ち良く汗流しに来たのに、筋肉痛が起そうなぐらい身体的にきつい

これが嫌だから自分の心地良いコンフォートゾーンの中でプレーする。

気が置けない仲間とプレーし、疲れたら休む。

残念ながらこれでは成長は見込めないのだ。

もちろんすべての人が上を目指さなければいけないというわけではないが、著者は「たとえ自らの分野の最先端に到達出来なくても、自分の人生を主体的に選び、能力を高めていくという挑戦を楽しむことは誰にでも出来る」と言っています。

はないちもんめの歌詞にも出てくるじゃないですか、「挑戦しよう、そうしよう」って。


冗談はさておき、文中の、

「限界的練習は本質的に孤独な営み。上達出来るかは自分一人でどんな練習をするかにかかっている」

という言葉に救われたのと同時に、改めて身が引き締まる思いがしました。


パデル スポル 品川大井町 スペイン
今読んでいる書籍の中に、

「傑出した技能を持つ人々とふつうの人の違いは、心的イメージの質と量」

という記述があった。

同じ章の中に、

「エキスパートは現場で遭遇しそうな様々な状況に対応する極めて複雑で高度なイメージを作り上げる。
こうしたイメージによって、特定の状況によりすばやく正確な判断を下し、迅速かつ有効に対応出来る。
初心者とエキスパートのパフォーマンスを分ける最大の要因がこれ」

とも書いてあった。

こうも書いてある。

「プロ野球選手がなぜ150㎞を超える速球を軽々と打ち返しているか考えてみよう。
これはその能力を長年鍛えた人でなければおよそ不可能な所業。バットを振るべきか、振る場合はどの位置で振るかといったことを、ほんの一瞬で決めなければならないからだ。
だが、彼らの視力がふつうの人と比べて格別良いわけではないし、反射神経が特別優れているわけでもない
彼らに備わっているのは、長年ボールを打つ練習をしたり、投げられたボールに対する自らの読みが正しかったかどうかというフィードバックが即座に返ってきたりという経験を繰り返すなかで培われた、一連の心的イメージである。
こうしたイメージによって、どんなボールが向かってくるのか、自分に到達したときにはどのあたりに来そうかといったことを瞬時に認識できるようになる。
ピッチャーが腕を振り下ろし、ボールがその腕を離れた瞬間、意識的な計算などしなくてもそれが直球なのかスライダーなのか変化球なのか、どのあたりに来そうかといったことがかなり正確にわかる。
要するにピッチャーの投球を読む術を身につけているため、実際に向かってくるボールはそれほど見なくても、バットを振るべきか、どの位置で振るべきかといった判断を下すことが出来る。
(中略)
エキスパートと凡人を隔てる最大の要素は、エキスパートは長年にわたる練習によって脳の神経回路が変わり、極めて精緻な心的イメージが形成されていることで、ずば抜けた記憶、パターン認識、問題解決などそれぞれの専門分野で圧倒的技能を発揮するのに必要な高度な能力が実現する」


要は、「練習しなさい」ということだ。

もう少し正確に言うなら、「予測が出来るようになるレベルまで練習しなさい」ということ。


アンダーラインを引いた部分に関しては、スポーツ遺伝子は勝者を決めるかの中にも興味深い記述があった。

「単純反応時間テスト(電球がついたら素早くボタンを押す)をすると、教師、弁護士、プロスポーツ選手のいずれかにかかわらず、ほとんどの人が0.2秒前後のタイムである。しかし、0.2秒というのは、時速160㎞の野球のボールや、テニスの時速210㎞で打たれたサービスに対してはあまりにも遅すぎる」

この本の中にも面白いことが書いてある。

「ピッチャーが投げたボールが、バッターのバットが届く範囲に存在している時間はわずか0.01秒。人の目がボールを見るときの角度は、ボールがホームベースに近づくにつれ急激に変化する。そのため、“ボールから目を離すな”という教えを実践するのは、事実上不可能」

だからテニスなどのインパクト写真でこういった写真を目にするのです。
パデル スポル 品川大井町 スペイン
パデル スポル 品川大井町 スペイン
なぜ「ボールを見ていない」のに上手く打てるのでしょう。

なぜ「ボールをよく見て」とコーチは言うのでしょう。


本の内容に戻ります。

「野球のボールがキャッチャーミットに収まるまで、ずっと見つめていられるような高度の視覚系は人にはない。ボールがホームベースまでの半分の距離を通過した後は、目を閉じていても同じともいえる。このように、ピッチャーが投げるボールの速さと人間の生物学的限界を考え合わせてみると、そもそもボールを打てるということ自体が奇跡にさえ思われる」

アメリカで以前、ソフトボール選手でアテネオリンピック金メダルのジェニー・フィンチ投手の投げるボールに、メジャーリーグの強打者、プホルスやボンズが挑戦というテレビ番組があったそうで、結果はメジャーリーガーの完敗。

「普段150㎞以上の速球を打っているメジャーリーグ屈指の強打者が、ソフトボールのほうがマウンドからホームベースまでの距離が近いとはいえ、110㎞前後の球をまったく打てないというのなぜか。
それは、高速で飛んでくるボールを打てるかどうかは、ひとえに将来予測能力にかかっているから。
ソフトボールのピッチャーの投げるボールに対する将来予測能力がないから打てないのだ」


この事実はとても興味深いですよね。


他にもバレーボール選手に対しての興味深い実験も載っていたが、さすがに割愛します。

やはり載せます。

「バレーボール選手に試合中のある場面を収めた写真を一瞬だけ見せ、写真の中にボールが“あったかなかったか”を答えてもらうという実験を行なった際、ある選手にはボールがあるかどうかどころか、一瞬の閃光にしか見えなかったものが、ある選手には写っていた選手や試合が行われていた会場まで把握していた。
要するに「ただの写真」に見える選手と、完全に体系づけられた「物語」に見える選手がいるということ。
プロとアマチュアとの決定的な違いの一つは、素早く動けるという持って生まれた才能ではなく、“学んでゲームを理解すること”にある。
エリートアスリートは誰もが、自分が専門とするスポーツについては、まるで写真のように正確な記憶力を持っている」
パデル テニス スカッシュ クラウドファンディング
ただ、スポーツではどうしても身体運動が多く、やはりそうはいっても身体能力の有無が関係しているのではないかという疑問は残る。

これにも答えが載っていて、身体運動が少なくて考える時間の長いチェスでも、マスターレベルと普通のプレーヤーを分けるものは同じで、駒が置かれたチェス盤を数秒見せ、その駒の配置を再現出来るかというテストをした際、普通のプレーヤーはほとんど再現出来ず、マスターレベルのプレーヤーはほぼ正確に再現出来る、という結果が出たそうで、このことから分かるのは、身体能力の有無に関係のないものでも、「成果を得るためには経験が必要不可欠」ということ。

この能力は後天的に獲得された能力で、生まれ持った奇跡的な記憶力ではないということ。

このことで、パデルにおいて元テニスプレーヤーがなぜ有利かという説明が出来る。

技術的なアドバンテージももちろんあるが、それよりも「ダブルスという競技で相手からポイントを取る」ということに関しての知識や経験値が高い。

そのため競技は違えどテニスをやっていなかった人に比べると、テニス経験者のほうが将来予測能力が高いのは容易に想像ができる。


チェスの実験でもう一つ興味深かったのが、先ほどのテストを「実際のゲームでは起こりえない駒の配置にした場合」に変えると、普通のプレーヤーとマスターレベルとの間に差がなかったという事実。

このことについてこうまとめている。

「チェスのマスターもエリートアスリートも、過去に見てきたパターンを参考にして、多くの情報を無意識のうちに少数の有意チャンク情報に分類している。
マスターにとっては、駒と駒の関連性こそが重要。
マスターは駒の何百万もの配置についての記憶データベースを持っており、そのデータベースが三十万個ほどの意味のあるチャンクに分類されている。
更にそのチャンクは駒(スポーツの場合は味方や相手)の配置に関してもっと大きな塊となっている“パターン”にグループ化されている。
そしてこのパターンの中で仮にいくつかの駒が動かされたとしても、全体像が失われることはない。
初心者は新たな情報や無作為に配置された駒を見るとたじたじになるところでも、マスターは見覚えのある駒の配置や構成をそこに見出そうとする。
次の一手を決めるにあたって欠かせない情報を、そこから探り出す。
“最初はゆっくりと意識を働かせ、演繹的にしか出来なかったことが、今では素早く無意識のうちに知覚によって達成されるようになった”。
チェスのマスターが正しい一手を“見る”という表現は、あながち間違いではない。

チェス、外科医、スポーツ選手などの達人の眼球の動きを研究した結果、経験を重ねるにつれ、資格情報を有用なものとそうでないものに、より素早く分別できるようになっていることがわかった。
達人は無用の情報には目もくれず、次の一手を決定するための最重要データを素早く取り込もうとする。
初心者が個々の駒、あるいはプレーヤーについていつまでも考え込むのに対し、達人は全体の中の、複数の駒、あるいはプレーヤーが形作る“空間”に神経を注ぐ。
全体像を通して初めて、プレーヤーの配置状況や相手のかすかな身体の動きから重要情報を入手し、次に起こることの予測が可能となる。
これがスポーツにおける最重要事項」
パデル テニス スカッシュ クラウドファンディング
この部分を読んだとき、合点がいくことがあった。

これはテニスの頃からあったが、レッスンをしていて、心の中で「なんでそんな(どうでもいい)こと聞くんだ??」と思うことが時折ある。

選手であれば自分のやっていること、知っていることを人に説明する際、大きなチャンクで説明出来るだけで問題はない。

だがコーチとなるとそういうわけにはいかない。

大きなチャンクをかみ砕いて小さなものにして説明出来る必要があるし、その逆に小さなチャンクをまとめて大きな一つの塊にしてアドバイス出来る必要もある。

だからなるべく枝葉の部分も説明出来るよう心掛けている。

そう心掛けていても、「そこ、そんなに知りたいか??」ということは出てくる。

また、質問されてみて初めて、「そーいえばそんなこと考えたこともなかった」ということもたまにある。

いや、正確に言うと私自身もやり始めた頃はおそらく似たようなことは考えたはずで、経験を重ねていくうちにそこは“考える必要のないもの”として淘汰されていったか、もしくは今となってはかなり小さい塊になってしまっているので意識にも上がってこない、という可能性もある。

そういう意味では自分を振り返ることにもなり、時々そこから新たな視点が見つかることもある。

だから、臆せずレッスンでガンガン質問して来て欲しい。

質問後、しばらく私が固まっていたとしてもそれは気にしないで欲しい(笑)

これを書いていてふと思ったのは、巨人の元監督の長嶋茂雄さんは、野球に対する心的イメージの質も量も申し分ないんだけど、チャンクがでかいの数個しかなくて、だから「スーッと来たのをバーンって打つ」になっちゃったのではないか。

名選手名コーチにあらず、とはこのことかもしれません。


こういった心的イメージの質や量を増やすことがスポーツ等で上達するうえで欠かせないということはお分かりいただけたと思う。

そしてこれは生まれつきの才能ではなく、誰でも後天的に獲得できる能力だということも分かってもらえたと思う。

将来予測能力を獲得するのも、ゲームを学べば十分可能であり、これも誰にも可能性がある。

要は「やるかやらないか」の差だけで、あともう一つ大事なことは時間と経験が必要ということ。


でも本当にそうなのか。

やれば誰もがエキスパートになれるのか。

続きはまた後日。

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