日本パデルアカデミー

テニスとスカッシュのハイブリットスポーツ、パデル。 パデルは40年ほど前にスペインで生まれたスポーツで、欧州や南米を中心に親しまれており、本場スペインではテニス人口を上回る競技人口をもつ人気スポーツとなっています。 「パデルが上手になりたい」という方のお役に立てれば幸いです。

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パデル バンデッハ 壁 打ち方

この記事では右利き同士が組む場合の考え方を書いたが、今回は左利き同士が組む場合について考えてみる。

と言いたいところだが今回は最初から質問である。

「プロの世界において、なぜ左利き同士のペアはほとんどいないのか」

なぜ右利き同士が組んでいるペアはいるのに、左利き同士のペアはいないのか。

これが分かるとパデルが上達します。(これはテニスのダブルスについても同様のことが言えます)

一言で言ってしまえば左利き同士が組むのはメリットが少ないから。

おそらくパデルでの利き腕の違いによるメリットを最大限活かせるベストなペアの組み合わせは「右利き&左利き」である。

「右利き&右利き」の組み合わせが多いのは、単純に左利きのプレーヤーが少ないからで、周りに左利きのプレーヤーがいればおそらく「右利き&左利き」ペアが必ず誕生するであろう。

左利きプレーヤーの希少性や、利き腕による組み合わせのメリットを考えると、「左利き&左利き」という組み合わせはもったいないうえにほとんどメリットがない。

左利き同士で組むという選択肢は「周りに左利きのプレーヤーしかいない」という状況でしか起こり得ないと思う。


もう一度質問。

なぜ同じ利き腕同士で組むと左利き同士より右利き同士のほうが有利なのか。

なぜ右利き同士(左利き同士)のペアより「右利き&左利き」のペアのほうが有利なのか。


こんなところから戦略は始まっています。

パデル バンデッハ 壁 打ち方


テニス(ダブルス)同様、パデルもレシーブを打つサイドを決めなければいけない。

そしてデュースサイド、アドバンテージサイドを「どちらを誰が守るか」というのはパデルでも重要である。

今回はペアのどちらもが右利きだった場合を想定して考えてみよう。

テニスでは、

「リターンがしやすいサイドはどちらか」
「プレースタイル」

などで決めるのが一般的であるが、パデルではどうか。

二人とも右利きであった場合次の一点に尽きる。 

「プレースタイル」

である。

このプレースタイルというのはどういうことかというと、簡単に言えば「決定率」のこと。

言い換えるなら「自分はアベレージプレーヤーか、決定力のあるプレーヤーか」ということ。

もっと言い換えるなら、「自分は篠塚か、原辰徳か」ということ。(もしくは「高木豊かポンセか」)

お分かり頂けただろうか。

テニスではサーブとリターンの出来が勝敗をかなり左右する。

だからプレースタイルと同時に「リターンの(返)しやすさ」も サイドを決める上で大きなウェイトを占める。

だがパデルではテニスほどまでにはサーブとリターンの出来が勝敗には関わってはこない。

となると残るは一つである。

ここで質問。

アベレージプレーヤー(篠塚)はどちらのサイドに入るのが良いか。

決定力のあるプレーヤー(原辰徳)はどちらのサイドに入るのが良いか 。

それはなぜか。
 
これが分かればワンランク上のパデル(テニス)プレーヤーです。
 

ヒント。

なぜ篠塚の打順は二番で、原辰徳の打順は四番なのか。


ジェイソン・ボーン

「ボーン」シリーズとしては5作目の今作も安定の面白さだった。

個人的には1作目から変わらないテーマソングがどこで流れるかをけっこう気にしていたのだが、今回はそこだけがやや消化不良だった。

これまではとても気持ち良い場面で流れていたのでちょっと残念。

ジェイソン・ボーンも良かったが、それ以上に良かったのが「シーモアさんと、大人のための人生入門」。

イーサン・ホークが好きなので出演している映画はほぼ観てきているが、今回はイーサン・ホークが主演ではなく実在するピアノの先生が主役で、しかもドキュメンタリーという異色作。

人にものを教えるということ、一つのことに情熱を傾けるということはどんなことなのか。

生き方や仕事について考えさせられました。

「人にピアノを教えるときに何を意識しているか」という問いに対しての答えが私の心をとても元気にしてくれました。(どんなことを言ったかはぜひ映画をご覧ください)

これぐらいの年齢とキャリアの人になると、アドバイスが抽象的で掴みどころのないものになったりしやすいのですが、(もちろん言葉にできない表現の部分は抽象的でしたが)極めて明確にアドバイスをしていたのも少し新鮮でした。

人を「育てる」とか、「変える」なんて大それたことはできないけど、何かを「考えさせる」「感じさせる」ことはできるかもしれないと思えた作品でした。
 

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